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1935年、前年末の大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)設立をうけて、阪神電気鉄道が職業野球団を組織する準備を始めた。ジャイアンツは読売新聞が部数の拡大を目的として設立した球団で、特定のリーグに所属しないそれまでのプロ球団とは違い、数チームでリーグを結成した上で安定した興行を行いたいという新聞本社の考えから対戦相手を探していた。特に、東京、大阪、名古屋の三大都市圏で試合を行うことを目指していたので、大阪近郊に甲子園球場という日本最大の球場を持っていた阪神電気鉄道が球団を設立することになった。

1935年10月25日の門前眞佐人との入団契約を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、同年12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさかタイガース)が発足した。日本運動協会、天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チーム(日本運動協会の後身として発足した宝塚運動協会を別個の球団として扱うと5番目、また、セミプロの大阪毎日野球団〔1920年-1929年〕も含めると6番目)であった。

翌1936年にも、1月9日に川崎コロムビアの若林忠志、2月28日に立教大学の景浦將など有力選手と契約し、同年4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。同年2月5日には、東京ジャイアンツ、名古屋、阪急等と共に日本職業野球連盟を結成している。これは、現在の日本野球機構の源流にあたる組織であり、同日が日本プロ野球リーグのはじまりである。

1936年の公式戦は、春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分けて東京、大阪、名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式だった。最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しなかった(後に名古屋金鯱軍も内外遠征を行っている)ためシーズン優勝は決めなかった。しかし、開催された3大会で松木や景浦率いる打線にエースの若林といった布陣で臨んだが、タイガースはいずれも1位を逃した。

1936年夏と秋のシーズンは、各大会で1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏、名古屋大会で1位になったタイガースは、東京大会、大阪大会で1位になった名古屋、阪急と優勝決定戦を行うこととなっていたが、直前になって中止され、初優勝を逃した。また親会社同士が競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋、打倒沢村栄治に闘志を燃やす松木や景浦を中心として各大会を戦い抜き、24勝6敗1分の成績を残したが、優勝を決める勝ち点は2.5で東京ジャイアンツと並んだ。このため、同年12月に洲崎球場で優勝決定戦が行われたが、1勝2敗で惜敗した。

戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に「東京巨人」に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男に加えて1937年春から豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁してプロ野球初の2連覇を達成した。さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝き球団初の日本一、さらには2年連続日本一となった。

1940年9月25日、戦局悪化による日本野球連盟の方針で敵性語である英語の使用禁止を受け、球団名を大阪タイガースから阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。

 

阪神タイガース承認復刻レプリカジャージ(48年)
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